清掃奉仕をしていただきました。
2011年 11月 19日
2011年 11月 19日
2011年 11月 18日
天神山の裏にある山、標高239Mの安波山(あんばやま)。小職が通った小学校校歌も出だしは「あんば山~♪」、
頂上からは美しい気仙沼の内湾を見渡すことが出来、私たち気仙沼地区の人たちにとってはとても思い入
れのある山ですし、最近では中腹まで車道と駐車場が整備され、市のHPによると「北上山系に属する安波
山は、古来中国の「風水思想」で重なる山並みを龍脈と呼んでいたことにちなみ、龍をイメージとした安波山
公園が山頂にかけて整備されています。公園では2頭の龍が出迎え、龍の階段、ひのでのテラス、ほしのテ
ラスなど、登山道にも仕掛けが施され、緑豊かな憩いの公園として親しまれています。」と広く気仙沼のシンボ
ル的存在でもあると思います。天神山の裏手からも登山口があり、子供の頃よく登ったものです。
安波山には大杉神社が鎮座しています。元文4年(1740)に茨城県の阿波大杉神社から御分霊を勧請した
と言われています。気仙沼市史によると「アンバ」は漁貝の「アバ」(漁綱の浮き)の説と、「安場」(やすらぎの
所)の説と2つあり、前者は海上安全、大漁を願う神の性格、後者は茨城の本社、大杉神社の社僧、常陸坊海
存が阿波の地を安住の地として留まり、天狗の姿で霊験を現したことから疫神、流行り病を鎮める神としての性
格が在るとのことです。いずれにしても気仙沼の安波山はかつては阿波山と表記されていたようですし、茨城の
大杉神社が鎮座する場所は、現在は阿波、常陸風土記には安婆嶋として登場し、現在もあんば様として崇敬を受
けている事から、茨城県の本宮の御分霊勧請と共に「あんば」の呼称も伝わり、鎮座する山の名称になり、や
がて港町の性格上、波安らかに大漁と安全の祈りの下、安波山になったのではと考えるのが一般的なのかなあ
と思います。でも山そのものが御神体或いは、それに近く霊山と考える信仰も日本には多々ありますね。勝手な
推測ですが奈良の三輪山、筑波山、箱根山などはそもそも信仰の山があって、後に山と同名の神社という礼拝施
設の形態がついて来たと考えれば、気仙沼の安波山は私の前述した考えだと神社がお招きされ、山の名前がつ
いたわけで、当然山はもっともっと古くから存在していたので「あんば様=大杉神社」勧請前はどの様な名を冠し
ていたのだろう?とも思うのです。気仙沼市史の第一説「アバ」(漁綱の浮き)の説などを含め他にも諸説が考え
られるのならば、安波山に親しみをもつ一市民としてはロマンスを掻き立てられます。ちなみに気仙沼の漁師が大
漁続きで疲れると、漁具などを積み重ねて上に祠を置き「今日はあんばはん」と休息をとる風習もあるようです。
長々となりまして、これで今日の日記は終わりかと言えば、残念!!実は前置きです。
安波山は車道や公園、駐車場が整備され、気仙沼内湾の絶景をより身近に体験できる観光の名所のはずでした
が、この震災では多くの人が避難した場所、そして壊れ行く、流され行く街を眼下に眺める悲しみの場所になって
しまいました。気仙沼の取材に来ていたお笑いコンビ「サンドウィッチマン」のお二人も避難したのが安波山と聞いて
います。あれから8ヶ月、随分市民生活は落ち着きを取り戻してきたようにも感じますが、安波山からの光景は、あ
の出来事が紛れもなく現実であったんだと如実に思わされてしまいます。
今日小職の長男から学校に見に来てと誘いを受けたので小学校に行ってきました。
「あんばまつり」と称した学芸会のような催しでした。久しぶりに小学校体育館に入り、掲げてある懐かしい校歌を
拝見しました。小学校の時は何気なく歌っていた校歌も、大人になって改めて歌詞を見ると、我が郷土を愛し、誇り
を持って恥じぬ生き方をせんと説くその内容に感激するものがあります。あんばまつり、子供たちも元気に頑張って
いました。校歌には殊更勇気を貰った様な気がします。豊かな緑と安波、波安らけき鼎ヶ浦は郷土の誇りです。
安波山から眺めるあの美しい光景が、蘇ることを信じ願って・・・。そんな事を深く感じた一日でした。
以下は気仙沼小学校の校歌です。是非ご覧になってください。
・安波山仰げば高し人しらぬ 世になりいでて降る雨に 緑いや濃く吹く風にちりを留めず ああ尊し山の姿
・鼎浦望めば広し限り無き 沖に続きて川水を 入れてあふれず照る日にもあすをことなし ああ麗し海のおもて
・この山の動かぬ心朝夕に 打ち鍛えつつこの海の 果て無き望み絶え間なく胸に抱きて いざ進まん学びの道
2011年 11月 17日
南三陸金華山国定公園。三陸沿岸南部、気仙沼市以南の三陸沿岸部を指すと思います。その中心となる
のが金華山です。牡鹿半島先端の沖合いに浮かぶ島で、黄金山神社が鎮座し、観光の一面を持ちなが
ら、往古より多くの崇敬を受ける聖域です。3年続けてお参りするとお金に困らないなどのご利益が伝えら
れ、参篭所も設備され、泊りがけでのご参拝も大変多いお社です。3月の震災では、その震源域が金華山
沖と大変近く、地震、津波で大変な被害にあわれました。さらに台風15号が金華山上空を通過し、これも
また大変な被害にあわれました。昨日今日と県内の別表神社会(規模の大きなお宮と考えていいでしょう)
の方々と宮城県神道青年協議会合同での復旧活動に行って参りました。
かつての捕鯨基地として知られた鮎川港。金華山等への定期船の発着所でもありました。ここも津波で壊滅的
な被害でした。今回乗せて頂いたSEA DREAM号、225馬力のエンジンを2基積んだ非常にパワーのある船
です。震災時船を沖に避難させ、最後にこの船が避難したそうです。そのパワーを使い津波の壁に3度突っ込み
波を突破して助かったそうです。それでも屋根の上のイスなどはもぎ取られたとの事。
ちなみに定期船はまだ再航していませんが、この様に臨時線は随時出していただけるとの事です。
一の鳥居の額のところまで津波が来たそうです。山肌や道路が凄まじく被害が出ているのは、津波なのか、地震
なのか、台風なのか。宮司さんはトリプルパンチを食らったようだと言っていましたが・・・。
灯篭や石物、コンクリートやアスファルトは被害が多いです。幸い社殿などの木造建築は被害は少ないようです。
社殿前の立派な青銅製の灯篭も倒れていました。我々の今回の主たる作業は、金華山の貯水槽の泥だしです。
参篭の施設や、神社の数ある施設の水の要です。非常に大きな貯水槽です。台風で土石流のようになった土砂
が貯水槽になだれ込み使えなくなりました。これを復旧しないと多くの参拝者の皆さんを迎えることは出来ません。
でもここは、社殿裏手の道なき道を登った所にあって、重機が入らず最小限の機材と手作業で行う他はありません。
2日間である程度の成果は出せたものの、まだまだと言わざるを得ません。1メートル、2メートルと掘り続け、底が
見えた時は感動しましたが・・・。
参集殿(参篭所)のお部屋を使わせていただきました。復旧作業に伺ったのに、美味しい食事や、寝具、お茶等ま
で準備していただいて恐縮の限りです。
お部屋の時計はその時で止まっていました。他の部屋も皆そうでした。揺れが強く壊れたのでは?との事。
松と楓が一緒になって生長した「相生の松楓」珍しいものです。金華山には神鹿が沢山います。人を怖がりません。
鹿用のお煎餅を参拝者から頂いているようです。そういった意味では鹿も被災しています。
金華山の着岸港はこの様な感じです。これでは小型船ならともかく、参拝者を多く乗せた旅客船は着岸できません。
宮司さんが仰っておりましたが、50年後100年後の金華山を守る人たちがこの様な苦難を味わうことの無いように
復興を果たしてゆきたいと、決意にも似たお話をされていました。
金華山を中心にその近隣の町が復興を果たし、神社も再び多くの参拝者で賑わうことを願って止みません。
2011年 11月 15日
今日は寒い朝でした。日中も日は出ていましたが風が強く肌寒い一日だったと思います
さて、今日は11月15日、七五三の日です。昔は今日に行う事に重きをおいていた皆様
が多かったようですが、今は15日というより、10月から11月にかけての休日のお参り
が多いようです。それでも昔からの伝統を第一にお考えの皆様もいらっしゃって、数組の
七五三の皆様がお参りになりました。
現代社会、伝統や風習を守るという観点では、努めてその護持に努力しなければならな
いものの、なかなか仕事や生活のスケジュールをそれに合わせるという事は難しい社会
構造なのかという感じは致します。昔は氏神様のお祭の日は、その氏子に該当するお
子さんは公式にお休みや、早引きが認められていたとの事、そう言った話を伺うと何か
ほのぼのした気持ちになりますし、失われた日本の大事な何かという感じがします。
中国や韓国などでは儒教の教えが色濃く残り、イスラム諸国では経典であるコーランが
社会、精神構造の全てともいわれます。自由主義のお手本、アメリカですら、道徳的あ
るいは国民統合の基本として、宗教との関連性を持つ点は見受けられ、そういった点か
ら相対的に考えると、政治や教育など国の基本的な部分に、政教分離という考えの下、
いわゆる「おしえ」的な「基礎」となるものが無い、我が国の構造が実は特異なのではな
いかと思うときがあります。何か国の骨格を成す部分に重要なバックボーンのようなもの
を感じられない事がよくありますが、その一つの要因がそこにあるような感じが致しま
す。簡単に申せば、人と人との議論だから、纏まらないものも、人知を超える事柄、神の
教え、或いは伝統(的考え)を本質に発展的に議論すれば、ブレずに物事が進むのかな
あと・・・。最近のTPP交渉などを見ていても何となく思ってしまいます。でも日本人が潜
在的にもつ日本人の命脈は厳として在ると思い信じますので、その国柄と国民柄のギャ
ップですね。
あらあら何か日記が長ーく訳の解らない展開になってきたようで・・・恐縮です。
今日は七五三の日ということで、東日本放送の方と東北放送の方が取材にいらっしゃっ
ていました。通年ですと仙台の大きなお宮さんの映像が流れますが、被災地の七五三
ということでしょうか、初めて当社にテレビカメラが入りました。お参りが無かったらどうし
ようと思いましたが、おそらくお子さんも保育所や幼稚園をお休みされ、親御様もお仕事
の都合をつけられてのご参拝かと思います。変な言い方ですが、助かりました・・・。今
日の夕方の放送だそうです。是非可愛いお子さんをご覧下さい、境内に落葉した葉っぱ
が多かった点は目をつぶってください。
本年七五三の齢を迎えられた皆さん、おめでとうございます。お健やかなご成長をお祈
り申し上げます。
明日、明後日と金華山黄金山神社の支援活動に行って来ます。その報告は後日に。
2011年 11月 12日
今日は天気も良く、七五三の皆さんがお参りにいらっしゃいました。日中は気温も上がったので
良い参拝日和だったのではないかと思います。紅葉も天神山にずい分下りて来たように思われ
ます。春夏秋冬、本当に日本の四季は夫々に趣がありますね。
さて、そんな秋晴れの一日、宮司と共に外仕事です。当社の宮司は股関節を人工股関節に入れ
替えているので、一応障害者の扱いになっています。でも、もともと体を動かす仕事が大好きな上、
幼少より痛くてたまらなかった股関節の痛みから開放されたので、より活動的になったのではな
いかと思います。今日は地震で壊れた参道の補修などに付き合いましてチョット疲れました。
話はガラッと変わります。昨日の日記で書けばよかったと思いますが、東京の混声合唱団の皆様が
被災地激励にコンサートを行っていただけると言うことで、会場の気仙沼中学校に(直)権禰宜と行っ
て来ました。小職の恩師であり、神主の先輩でもあるS先生からのお誘いを頂戴しました。
実はS先生は東京にいらっしゃった折、プロの合唱団に所属されていたそうで、小職が中学時代にも
東京から合唱団の方々が音楽授業の一環でお出でになって、確か市内の中学生全員が市民会館
に集ったと記憶しますが、S先生もご一緒にその美声を披露したと記憶しています。えらく感動した記
憶があります。
今でもS先生がそれこそ「千の風になって」などをカラオケで歌うと、他のお客さんからスタンディン
グオベーションをいただきます。兎にも角にも中学時代の記憶が蘇る様な、素晴らしいコンサートで
した。アンコールで歌われた「ふるさと」は何か涙が出てきそうでした。周りを見渡すと目頭を押さえ
ていらっしゃる方も・・・。故郷を再び・・・皆さんそう思ったに違いありません。