大雨の後の鹿折地区
2012年 5月 5日
日がさす朝です。柴田病院のご一行は朝の日供祭に参列された後お帰りになりました。
今日はこどもの日で大安吉日、初宮参りなどのお参りの方も多くいらしゃいました。
ちょっと時間を見つけて気仙沼市の鹿折方面に行ってみました。一昨日の豪雨の影響で
水田の様になっていました。かさ上げした道路部分で沈下した部分が囲われるようになっ
た結果と思われます。住民の男性がこんな事を言っていました。「ここはそもそも田んぼ
だから水はなかなか引かないぞ」。確かに鹿折地区は藩政時代より明治期に至るまで製
塩業で栄えた地域であり、多くの塩田が在った地域だったそうです。明治に入り製塩を藩
営から民営化するにあたり、商業ベースに乗れる塩田しか存続する事が困難となり、藩営
に依存度が高かった鹿折地区の塩田は衰退したとの事です。その後は各時代の変遷を経
て埋め立て整備が進み、商業居住地となって現在に至っていました。
その鹿折地区は津波と大規模火災で甚大な被害を蒙り、震災から一年余りが過ぎた今、
多くの瓦礫が撤去され大雨の後の様子は、皮肉な事に百数十年前の塩田ではありませ
んが一面水田の様になっていました。津波は百数十年間築き上げた街や文明を一瞬の
内に尊き命共々奪い去ってしまった・・・。改めてそう感じる光景でした。
震災を忘れじとモニュメントとして残すことが検討されている大型漁船も鹿折地区にあり
ます。様々な本や映像にも載せられているこの船は有名なようで多くの方が見学に訪れ
ているようです。この船を見学され、災害の恐ろしさと現実を感じ、今後日本のどこである
かわからない災害に対する自身の備えにしていただけるならばとても有意義なことだと感
じます。
でも一方で私ですらこの船を見ると今でも胸にギュッと来るものがあります。ましてや鹿折
地区の方々の思いは察するに余りあるものが・・・。後世に伝える教訓としてのモニュメント
も一理、震災の記憶に縛られてしまう要因も一理、被災地ではまだまだ難しくデリケートな
判断が山積です。
右の写真の向こうに見えるのがモニュメント化予定の大型漁船です。