北野神社
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Archive for 7月, 2011

被災した神棚は?

2011年 7月 31日

今日は7月31日、今日で7月も終わりです。今日も雨模様です。各地で記録的な豪雨、特に新潟県

は大変な被害が出たとの事、大変な事です。心よりお見舞い申し上げます。

さて、今日は気仙沼の先輩神主さんの奥様のご葬儀があり参列して来ました。奥様は震災の津波に

て行方不明であったわけですが、震災から4ヶ月以上経ち、ご先祖まつりの月を前に心の区切りをつけ

る為、ご葬儀を行いました。気仙沼ではまだ、行方不明でお姿を現していらっしゃらない方々も多いですが、

地元紙の黒枠では「心の区切り」として、ご葬儀を挙げられる方々が増えてきたようです。

ご家族の元に戻られる事を只管待ち続けながらも、一歩を踏み出すために「心の区切り」と決断を下す。

そのご心情を察するに本当に余りあるものがあります。今はお御霊の安らけき事、鎮魂を祈る他はあり

ません。

昨日お参りにお出でになった方に、被災した自宅を解体するのだけれど、神棚はどうしたら良いのでしょう?

と質問を受けました。ゴミに出すのは嫌だし、家屋と共に解体したとしても結局はゴミとなる。随分悩まれて

いたようです。神社で丁重に神事を行いお焚き上げさせて頂きます。どうぞお持ち下さいと答えました。今、

仮設住宅等に伊勢神宮よりの小型神棚を頒布していますが、当然被災した神棚は神社に納められるだろう

との勝手な思い込みがありました。我々神主の当然が全ての人の当然ではない。きっと多くの方々が悩ま

れている、小型神棚をお配りすると、皆さん深々と頭を下げてお受けになります。神仏を敬う心は失われては

おらず、その心は自宅と共に在る神棚(神様)にも向けられているのでした。その想いに対し、情報発信という

かケアが足りなかったと反省いたしました。気仙沼ではこれから被災家屋の解体が本格化します。何かしらの

方法で被災神棚の対応について情報を提供しなければなりません。先ずは天神山日記で周知いたします。

今までご家庭の心のより所、祈りの場であった神棚、被災によって対応にお悩みの際は、是非神社にお持ち

下さい。皆様の想いに沿うよう丁重に神事を行い、お焚き上げさせていただきます。よその神社さんでも対応し

ていただけると思いますが、焼納場所等の都合から、事前に電話等で確認された方が良いと思います。

小型神棚の頒布

2011年 7月 28日

今日も暑いです。もうすぐ8月ですが、8月はお盆がありますので、皆さんご先祖供養に

忙しかろうということで、出来れば7月中に既設の仮設住宅の皆さんへ伊勢神宮より贈

られた小型神棚を頒布しようと、今神社庁気仙沼支部の神職が仮設住宅を訪問してお

ります。旧気仙沼地区の担当神社は当社と五十鈴神社さんで、26日、27日と既設の

仮設住宅5箇所にお邪魔させていただきました。仮設住宅内の集会所を頒布場所とし

てお借りし、事前にチラシをポスティングしておりましたので、我々がお邪魔するや、多く

の皆様が神棚を受けにお出でいただきました。心の安らぎを得て、家庭や地域を想いな

がら、絆を再確認する、そして故郷や夫々のご家庭の復旧復興への希望の祈りとなっ

ていただけたら良いなと思います。

津波によって全てが流失し、神社と氏子と言う関係性も、無くなった訳ではありません

が、かなり複雑になっているのは否めません。ですから今回の頒布活動も神社と氏子と

いう範疇でなしに、あくまで気仙沼支部として活動を行っております。今日は新月地区

五右衛門ヶ原公園200戸という件数でしたので、担当神社だけではなく支部の神職で

対応を行いました。

               

今後は8月に入らざるを得ませんが、新たな仮設住宅が完成し入居が完了し次第、順

次お邪魔させていただく予定です。お邪魔した際お留守で受けそびれたご家庭や、賃貸

住宅等に移住された皆様にもお頒けいたしますので、ご足労をおかけしますが、当社や

気仙沼市内各神社でお受け頂きたく思います。

                                                      

読売新聞に記事が載っていました。このように心のより所となって戴けたら嬉しいです。

ボランティア有難うございます。

2011年 7月 25日

今日は明日からの仮設住宅への小型神棚頒布活動を前に、御札を納めたり、袋やチラ

シを準備する作業を行いました。旧気仙沼地区担当の当社と五十鈴神社さんで、とりあ

えず入居が完了した5ヶ所を明日、明後日の2日間で行う予定です。神棚を中心に家族

の絆や復興への希望につながってゆければ良いなと思います。

夕方に青森県神道青年会の皆さん、秋田県神道青年協議会の皆さんが御参りにお出

でくださいました。気仙沼のボランティアにお出でいただいたとの事、東北の他県の方々

もボランティア活動を行っていただいたようです。市民生活復興のためのボランティア、

本当にありがたい限りです。暑い中の作業、御疲れの事と思います。帰路のご無事をお

祈ります。

お日柄も良く地デジ移行の日

2011年 7月 24日

今日は大安吉日の日曜日。お天気も良かったこともあってか、お参りの方も多かったようです。

夕方には東京の神社本庁から知人とお仲間の方々がお出でになりました。気仙沼大島で

大島神社さんを拠点に被災支援活動を行った帰路との事、暑い中お疲れ様でした。

さて、話はガラッと変わって、今日の正午でテレビ放送が地上デジタル放送に完全移行されま

した。と言っても、被災地の現状を考慮してか、岩手・宮城・福島の3県はまだアナログ放送が

見られるようです。当社では壊れてもいないブラウン管テレビを処分することが躊躇われ、という

か実際は経済的な面が一番ですが、一台を除き地デジチューナーをもって対応しています。

ところで電波塔といえば、今話題の東京スカイツリーと言うことになるのでしょうが、私として思い

入れがあるのは断然東京タワーです。学生時代、神職の作法を習う祭式教室から直傍に見える

東京タワーがとても綺麗で、心和ましながら作法習得に集中したものです。

日本の高度経済成長期と歩みを同じくして来た東京タワー、まさに東京のシンボルであったことは

疑いなく、多くの夢や希望を抱いて上京した方々は東京タワーを見て、東京に来たんだ、という

実感を持ったのではないかと思います。ひとりひとりに、ひとりひとりの東京タワーがあるのではな

いでしょうか。

一時、地デジ化によって、テレビ電波がスカイツリーに移ることにより、東京タワーの存在意義が

問われる事がありましたが、どうやら他の電波塔としての役割や、スカイツリーの予備電波塔とし

て残されるようですね。ちょっと昭和の匂いがする東京タワー派の私としては嬉しい限りです。

今日は神社の日記とは全く関係ありませんが、地デジ移行の日にこんな事を思いました。

           

神社のアンテナです。当社は気仙沼のケーブルテレビ局から電波を得ていたので、必要ありません

でしたが、テレビの数が多いから立てておくか、と震災のチョット前に設置しました。その後震災で

ケーブルテレビ局が被災して、局に加入の多くの世帯でテレビが見れない状況にありました。当社

も普段はケーブル局からの電波でテレビを見ていましたが、震災後はこのアンテナのおかげで、情

報を得ることが出来ました。 あの時たてようと思ったこと、不思議と言えば不思議です。

今境内は山百合が多く咲いています。例年ですと蕾の段階でカモシカが食べてしまい、あまり花を

見ることは無いのですが、今年は沢山咲いています。そういえば震災後、カモシカが姿を見せなく

なりました。

今日は大暑

2011年 7月 23日

今日は二十四節気の大暑です。最も暑い時期になります。ところが今日は涼しいくらいの陽気で

節電や震災の影響が色濃くのこる被災地では有り難い陽気ではないでしょうか。

昨日の話になりますが、神社庁で震災復興の勉強会があり参加してきました。講師は宮城県の

大震災対策調査特別委員会で委員長をお努めの県議、相沢光哉先生であります。

いろんなお話をいただきました。例えばこういった災害では復興の主となり活動するのは地方自治体

であり、国は後方支援なのだそうです。ですから悪い例でしたが、削れるところは削れ、努力をしろ、

コンセンサスをとれ、国に甘えるところは甘えろという前某大臣の発言は、日本の法体系を具体的に

言っているものだそうです。

また激甚災害では9割まで国が補助できるらしいですが、1割は地方が担うことになる。宮城県の

ある町では年間の歳入が約70億円だそうです。その町が壊滅的な被害にあいました。県がその町

の復興予算に1割負担でソロバンを弾いたところ、1100億円(うる憶えです)だそうです。年間歳入

70億円の町に1100億円の負担なんて無理ですよね。この町に限らず、これが被災地の現状なん

だと思います。復旧復興には20兆円とも30兆円とも言われますが、2兆円、3兆円と小出しされて

いる間に、被災地の体力は底をついてしまいます。先生も強く仰っていましたが、東日本の復興と一

地域で捉えるのではなく、日本の未来という観点から国には抜本的な対策をとってもらわなくてはな

りません。

大正12年9月1日に起こった関東大震災、首都東京が廃墟と化しました。その翌日より検討され、20

日余りで設置された帝都復興院。その総裁として復興の為に敏腕を振るったのが後藤新平という人物

です。それは大規模な区画整理や公園、幹線道路の整備を含めたもので、当時の国家予算に匹敵する

復興費用を要請したそうです。現在の東京の都市構造そのものが、当時の後藤新平さんの復興構想

によるところが大きく、道路などは非常に幅員を多くとり、環状線や放射状に伸びる道路を主張したそう

で、後の車社会を想像だにしなかった当時の人々からは、なかなか理解を得られなかったようです。

兎にも角にも、現在の首都東京の姿があるのは、マイナスをプラスに変える、先見の目を持ちながら、

強力な指導力をも併せ持つ後藤新平さんの御蔭と言っても過言ではないのでしょう。

この未曾有の大震災、被災地が疲弊する前に、このような方が現れてくれる事を願わずにはおれません。